何年か前、引っ越しをするべく部屋を片付けていたときのこと。
20歳そこそこの頃につけていた日記が出てきました。
ページを開き、2、3ページ軽く目を通すとソッコーでゴミ箱へぶん投げました。
漫画slam dunk世代としての名に恥じぬ、ゴミ箱へのダンクかましました。
なんとしても、人目に晒される前に処分する必要を感じたわけは、書いてある内容はもとより、
文体がめっさ村上春樹かぶれだったからです。
(いるいる〜〜そーゆう人いるいる〜〜〜〜)
いやぁ〜〜、こわ〜〜、おえ〜〜。
あれが誰かに読まれることを想像するだけでもゾッとします。
サンドイッチ作ったりウィスキー飲んだりする描写。チープな比喩。
そんな日記を読み返しては悦に浸っていたという黒歴史っぷり。
20歳くらいのころ、村上春樹さんの作品にかなり傾倒していたせいですね。
アイタタタタ…。
僕は今でも氏の大ファンです。
しかし、氏の文体を気取って日記をつけていた自分に関しては、両乳首を洗濯バサミでギューン挟みつつ脇腹をコショコショ、
要するに、痛いんだかくすぐったいんだか分からないけど、とにかく早く脱したいこの状況に長時間追い込みたいです。
男たるもの、
カミソリかぶれと春樹かぶれには気をつけたいものです。
ところで、僕は今、一昨年亡くなった祖母の家の片付けに来ています。
両親や叔父さんたちが、折を見て片付けに来てはいるものの、まだまだモノが多い家の中。
祖母が生前使っていた台所道具とか、身の回り品がぎっしり詰まったこの家。
あたりまえの話ですが、身の回り品って、あの世までは持っていけません。
持ち主がいなくなってしまった道具や家を見ていると、なんともしみじみとしてしまい、
僕は親指2本分だけカティサークのオンザロックを飲みたいと思った。
はっ…いま出てた?
いま、春樹出てなかった?
今、俺の中の春樹ハミ出てなかった?
元い。
話を戻しますと。
片づけの最中、目に飛び込んでくるものの数々。
僕たち兄妹が幼い頃に遊んだおもちゃ。
趣味のわからない絵画。
誰かがくれた旅行土産の飾りもの。
若かりし日の祖母や祖父の写真。
祖母が好きだったちぎり絵。
使うのがもったいなくて戸棚にしまったまま、最後まで使われなかった工芸品の食器。
などなど。
時間が止まった家の中で、ただ捨てられるのを待っているだけのものたち。
なんとも切ない詩を感じてしみじみ。
「それってメタファーとして完璧な寂寥。君もそう思わない?」
突然、耳元にささやく名前を持たない女の声に、僕はただうなずく。
「あるいはそうかもしれない。」
はっ…。
出てた?
今、出てたっしょ?
春樹出てたっしょ?
プチトマト噛んだ時みたいに、ピシャーって。
俺の中のリトル春樹、完全にはみ出してたっしょ?
やれやれ。
ふと見やった畳の上に、一冊のノート。
革製の表紙に「diary」の文字。
祖母が生前つけていた日記なのでしょう。
一瞬迷ったあとで、結局ページは開かずにそのまま部屋の脇へ、他の本と重ねて置きました。
亡き祖母がどんな思いでどんな日々を生きていたかを、勝手に想像するくらいがちょうど良いように思われました。
それに、読まれたくないでしょうしね。
例え、文体が村上春樹にかぶれていなかったとしても。
いま僕が伝えたいこと、それは、
イタい日記が手元にある人は、保管にご注意を〜。