鹿児島の美容室から

髪のお悩み、口コミなど、かわなべひろきのブログ

記事メニューはここにタッチ

【雑談#02】読書する目的とかなんとか

僕は読書が好きです。多読よりは、気に入った本をじっくり時間をかけ、主に「古典」と呼ばれるような本を、何回も読み直すような読書を最近はしています。

 

小説や詩も好きですが、一般的に堅っ苦しいイメージのジャンル(文化人類学、社会学、思想哲学、宗教学、経済学、東洋医学、など)の、

どっかのえらいオッサンが眉間にシワを寄せながら書いたような古典を、眉間にシワを寄せながら「なんだかよくわからねぇなぁ」とかブツブツ言いながら読むことが多いです。ほぼ修行。

昔のオッサンすごい…。読むのに骨が折れる。マジだるい。でも好き。

 

読書する上で、気をつけないといけない「罠」があります。非常にやっかいな罠で、これにハマるくらいならもういっそ読書なんかやめておけって話。それは

自分が賢くなったような錯覚に陥る罠

です。

 

自分が考えたわけでも無いことを、ただ読んで知っているだけで、自分が考えたことかのように錯覚してしまい、まるで知恵者を気取ってしまう。これではホンマにあきまへんわと、唐突に関西弁で今は思うわけです。

 

モノを「知っている」ことと、「理解して実践している」ことは、

たとえば、肉じゃがという料理を「知っている」ことと「自分で作れる」ことくらいの隔たりがあります。

 

その昔は僕もこの罠にハマりまくってて、誰かの言ったことに対して「よしきた」と心の中で腕まくりをしては知識総動員で上げ足をとる、みたいなバカなことをやっていました。今風に言うと、「マウントを取る」みたいなことを。大した知識も無いくせに、です。恥っずぅ…。

これね、マジでバカですよね。バカのマウンテントップ。今にしてみれば赤面レベルの黒歴史。穴があったら入れたい…あ、違う、入りたい、か。

 

時を経て、今ではこの罠にハマることも無いのですがそれは、自分にとっての読書の目的がブレなくなったからです。

 

読書する目的も人それぞれですが、僕の場合は

  • 楽観的に生きる視点を養うため
  • 誰かの生活に役立てるため
  • 旅気分を味わうため(気分転換)

に、先人の知恵や知識、物語に触れるようにしています。

それさえ分かっていれば、自分が読むべきものや自分にとって良質な読書体験もハッキリします。多読も速読も自分には必要ないことがわかる。もちろん、誰かにマウントを取ることもしなくなる(苦笑)

 

多読が必要ないなと思うことの1つに、たとえば同じ本を読んでも、発見の数が1の人もいれば100の人もいる。

また、「古典」は本質的でありかつ、多角的な理解ができる(だからこそ、歴史に埋もれない)ので、何回読んでも新しい発見ができて、単純にオモロいんですよね。

 

同じ読書や体験から、発見できるモノゴトの数や質を自分自身に対して問うことこそ、知性を磨くことなのかもしれません。(他人にではなく、自分自身に問う態度が大事やね)

 

歴史を振り返っても、

ニュートンは、りんごが木の枝から落ちるのを見て「あれ?万有引力…あるっぽくない…?」ってなりましたし、

仏陀は、瞑想のうちから「あれ…諸行が無常とか…生きる苦しみとか…これって真理っぽくない…?」ってなりましたし、

レオナルドダヴィンチは、川の流れや水面を見ていて「あれ…髪の毛の描き方…わかってきた気がするぞぉ〜」って、なったらしいです。

 

僕なら、何も拾い上げられなかっただろうごく些細なことから、偉人たちは大きな発見をしてきたことを思えば、わざわざ言うまでもなく自分の至らなさが身に染みもする。

 

なんか、話がズレた気がしますが、

まぁ、そんなこんなで僕は僕の読書を楽しみつつ、自分の人生を実りあるものにできたらな、などと考えています。

 

さっき、肉じゃがの例え話をしましたが、お店でもプライベートでも、僕が自分で作れるようになった「肉じゃが」に関しては、必要なタイミングがあれば人様にも差し出していけたらな、と思っています。(あくまでも比喩ね、カラーの待ち時間に肉じゃが出したりしないからね)

 

では、また